キミの隣で、モラトリアム

虚実ないまぜインターネットの墓標

小規模エスケープ世界革命

どこかに行きたいってのと、ここにはいたくないってのは同意義だって話を聞いた。

 

わずか1.2年前の私は本当にどこかへ行きたかった、見知らぬ電車に飛び乗って知らない町へと行きたかった、毎日おんなじ風景の通学路に嫌気がさしてた、「ここじゃないどこか」って何度も何度も呟いてた。どこか、ってなんだよ、そんな曖昧なもの、って思いながらもそれにしかすがることが出来なかった。

 

 

もう、あれから2年も経つ。2年前の冬、冬休みの最後の日に青春18切符の最後の1回を使って、「遠く」に行った。本当は夏にでもやるべき事なんだろうけど、すべてが嫌で、でも何が嫌なんだか分からなくてどうしようもなかったから、電車に飛び乗った。
行き先は決まっていた。私は地図をみて旅をした気分になるのが好きで、スマートフォンを買ってもらったはじめの頃は、よくそうやって遊んでいた。今も時々遊んでいるけれど、あの頃に比べたら断然頻度は落ちてるだろう。その時に見つけた浮島町公園に行くつもりだった。川崎にある公園で、羽田空港を離発着する飛行機が良く見えるらしい、工場区域のそばにあるらしい、それくらいの事しか知らなかった。ただ、そこは、多摩川が東京湾に向かって流れる一番河口付近のところだった。海が好きだった私は、勝手に、ここが今の私の世界の端だと思って、向かった。
揺られる電車の中では、通勤途中のサラリーマンや、もう学校が始まった学生達の間で、窓の外を眺めていた。はやく、はやく、もっとはやく景色が移り変わって、知らない風景に囲まれたかった。あまり外ではイヤホンをつけないのだけれど、その時はイヤホンをつけて、ずっと椎名林檎の閃光少女を聴いていた。3分程度の短い曲を、何度も何度も繰り返し、それだけを縋るように聴いていた。
周りの景色も充分すぎるほど見たことのない街並みになった頃、電車が川崎に着いた。川崎はそれなりに大きい街で、店も沢山あったけれど、私の知っている街とは雰囲気が違った。公園には、バスか、車で行ける、とインターネットに書いてあったけれど、バスの停留所は駅のあちこちにあって、よく分からなかったから、京急に乗って、行けるところまで行ってから、歩こう、と決めた。
京急大師線線は赤い電車で、本当に短い路線だったし、行き先も、何も無いところへ行くから、車内はガラガラだった。川崎から乗り込んできた人も、大半は川崎大師で降りた。そういえば、今年はまだ初詣に行ってないや、と思ったのを覚えている。
終点の小島新田で降りた。本当に何も無い駅だった。iPhoneの地図を片手に進んだ。工業地帯に隣接した街で、小さな工場や、最盛期に建てられたのであろう集合住宅や、古びた商店などがあって、不思議な気持ちになった。ある程度進むと、工場が色々見えてきた。フェンス越しに臨む工場はとても大きくて、その重厚感に圧倒されたし、あの時、私は工場区域の風景が好きになった。その後、この話を友人にしたら、写真が趣味だった彼女は、工場夜景とかいつか見に行こうよ、と言っていて、絶対行こうね、と返したけれど、あの約束はまだ覚えてくれているだろうか、と思っている。
しばらくトラックなどが頻繁に行き来する道路の脇を進んでいくと、小さな林があった。そこを抜けると浮島町公園だった。公園には小さめの風車が2.3本たっていて、海からの風を受け、よく回っていた。背後にはもう忘れてしまったが、有名なメーカーの工場か会社が建っていたような気がする。インターネットに書いてあった通り、海が良く見える公園だった。遠くの方までよく見渡せて、時折、向こうの方から汽笛を鳴らしながらやってくる船も見えた。空には羽田空港を離発着する飛行機がひっきりなしに飛んでいた。お昼をまだ食べていなかった私は、公園の一番高台にあるベンチに座ってコンビニで買った安いパンをかじった。イチゴ味のパンだった。
それからは何をするともなしに、海と空を眺めていた。そこは、航空写真を撮る人たちの中では有名なスポットでもあったらしく、平日にも関わらず、数人、大きなカメラを抱えて、熱心に飛行機を撮っていた。飛行機の違いなんてよく分からない私は、ただぼんやり見ていた。冬だから、当然寒かったのだけれど、太陽に照らされていたせいか、不思議と寒さは感じずに、ただ、雲が流れる様子や、波が揺れる様子を眺めていた。
随分と景色を見ていたんだと思う、日も暮れかかってきたから、名残惜しいけれど、帰ろうと思って公園を出た。帰り道の足取りはもっと重くなるかと思っていたけれど、存外普通だった。たまたまバス停を見つけて、バスがやってきていたので、走って乗った。足取りは普通だったけど、うまく走れなかったから、やっぱりそうだよな、と思ってガラガラのバスに乗り込んだ。バスの中は暖かくて、ウトウトしてしまった。知らない街の、知らないバスで、寝てしまったけれど、意外と私はこの街で上手くやっていけるかもしれない、と、住む予定もさらさらないのに、誇らしく思っていた。帰りの電車は夕日が綺麗だった。川の近く、大きく線路がカーブするところで、水面に夕日が反射してキラキラと光ってとても眩しくて美しくて幸せだったことを覚えている。

 

 

そうやって私の冬休みは終わった。
小さな逃避行を繰り広げて、別に何かが変わったわけじゃない。何事もなく新学期は始まった。相変わらず毎日はやってきて、同じ通学路を通って、学校に向かう。そうした毎日を繰り返して、祝福されるような幸福を、突き落とされるような絶望を味わって、あれから、私はもうすぐ、2回目の冬を迎えようとしている。

 

もう今は、あの時ほど「ここじゃないどこか」に行きたいとは願っていない。屋上から見る景色や、流れる車窓をみて、胸が苦しくなるけど、きっとそれは単に郷愁だ。ここから逃げて逃げてもっとずっと遠くに行きたいと切望はしていない。腐るほど同じ毎日にひりつくような嫌悪を抱いていない。
それは、きっと、今ここで生きてみてもいい、と思ったからだろう。あの時、私は、「どこか」に行けば、大丈夫だと言ってくれる誰かがいると願っていた。だけど、私はこの2年で、「どこか」に行かずとも、自分で、新しい居場所を創り上げた、今ここで戦う武器と仲間を手に入れた。そこにいる彼ないし彼女は、大丈夫だとは言ってくれないけど、にやり、と笑って、面白いじゃん、と言ってくれる。それだけで充分だと思えた。

私は私の世界に自らの手で革命を起こした。


私は、ここで生きてみてもいい、と思った自分を認めたい、「ここじゃないどこか」を捨てたと言う事は、諦観でもあるだろうし、進歩でもあるだろう。
だけど、ここではないどこかを探す事をやめた自分に目一杯失望したいし、そうやって今ここで生きることを選んだ自分の背中を押してやりたい。
2年間の淘汰を、成長を、挫折を、困難を、希望を、期待を夢を痛みを悲しみを、そして、ありふれた日々を、全てをひっくるめて、私は私を肯定したい。

 

確実にあの時より私の世界は拡大した。
今はもうきっと世界の果ては浮島町公園ではないだろう。

そうしてまた、「ここじゃないどこか」を思い出す日が来るかもしれない。閉塞感を感じたのなら、探索をして、世界を広げればいい。

 

今、「ここじゃないどこか」の誰かでなく、私は私自身に告げる事が出来る、大丈夫、私は最強の武器と仲間を手に入れた。

 

そう願ってもうしばらくここで生きてみる。

世界の果てとQ&A

あらやだ、死に場所もわからずにここまでやってきたの、ここに墓標を立てるつもりなの。あらそう、あなたここで死ぬのね、かなしい、って言えばいいのかしら、私あなたの死についての言葉を持ち合わせていないのごめんなさい。それでも多少の事はわかるわ、今までいたはずのあなたが明日からは私のいる世界から消えるってことでしょう、私がどんなにあちこち走り回って大声を出して叫んでもあなたは見つかりっこないってことでしょう、このふざけた理不尽な美しい世界からあなたは永久に消え去るのでしょう、知ってるわそれくらい、それだけ。

 

ねぇ、じゃあ、これから「あなただったもの」が入るはずの「墓」についてどう思う、ここにはかつてこの世界で息をしていた「あなただったもの」がゴロゴロと乱雑に詰め入れられて、ああ、違ったわね、原型なんて留めないほどに焼かれて白い砂糖菓子のような骨となって埋められるのだけれど、それは確かにあなただったと言えるの、そこにあなたはいるの、あなたはどこにいるの。

 

私思うの、宗教的なもしくはヒューマニズムに則った民俗学的観点からのぞめば、それはきっと遺族や残された人々の拠り所となるものなのでしょう、だって人は目に見えるものでなければすぐに忘れ去ってしまうもの。ひどく愚かで、そしてとても可愛らしい生き物でしょう。この世界にいたはずの誰かを忘れないために大きな目印をつくって、そこにまるでその誰かが今でも存在するかのように過ごしているのよ。

だけど、生物学、科学的な観点から言えば、その土の下にあるのは壺に入ったただの白い骨だわ。更に時も経てばその白い骨も次第に人のかたちを忘れて白い粉となるの。もしも知らないうちに誰かがこっそり赤の他人のものとすり替えていてもきっと私たち気づかないわ、だってそれ、骨なんだもの。それでもそれはこの世界にいたはずの誰かなの?、私たちは幻影に固執しているんじゃないかしら、そんな気になってくるわ。

 

ちょっと休憩しましょう、コーヒーブレイクとでも洒落込んじゃおうかしら、ところで、とても大事だった人が死んだあとの雨の日はとてもあまい香りがするそうよ。さぁ、なんで、なんでかしらね、死は生の裏返し、いいえ、生でもあるから、私の知らないどこかでまた新しい何かが誕生しているのかもしれないわ。でもきっとそれを私は永遠にこの目で見ることは出来ないの、ええ、きっと。別に私の目が見えないとかそんな即物的な話じゃなくて、なんとなく、そう、なんとなくそんな気がするだけ。

ねぇ、時々思わない、限りなく愛しい人が死んだ時、その人の骨はきっと、今までに見たものの中で一番美しくて、白く輝いていて、舐めたらきっとあまいのよ。その美しい絶望を一舐めするとやわらかにあまい味で、さり、という音を立てて、ゆっくりと舌の上で崩れていくわ、きっと。私それを信じてる。でも私、なんとなく、私が舐めるその絶望は愛しい人自身だと思うわ、冷たい土の下にいる誰かは本当の誰かなのかはわからないけど、やさしくて、やわらかいそのあまさは多分愛しい人なのだと思うわ。

 

そう、墓の下は誰がいるのか、って話だったわね、どう思う。私何度も考えてみたけどやっぱりあの土の中に誰かがいる気にはなれないの、ねぇ、誰もいないんじゃないかしら、記憶媒体としての物質が、それはここにいたはずの誰かと今でもこの世界に生きてる誰かを現実の時間軸で確かに繋いでいた、目に見えて、手に触れることが出来るものだけが、冷たく静かに埋まってるだけなのよ、多分。それは確かに記憶を繋いでくれるけど、その誰かではないわ。私たち、土の中に新たな見ることの出来ない誰かを無意識のうちに生み出してるのよ。でも、別にそれは構わないと思うの、だってさみしいじゃあない、人間には耐えられないわ、私あなたがいなくなってもさみしいともなんとも思わないけど。このくだらない世界で生きてくために新たな誰かを誕生させるのよ、あ、わかった、だから大事だった人が死んだ次の雨はあまい香りがするんだわ。きっとそうだわ。

 

え、じゃあ、本物はどこいったのかって。さぁ、私もそれはわからなかったわ、でも、愛しい人の骨を舐める時とか、明日もわからないような日に見る夢とか、そんな時には確かに本物がいるような気がする。非実態で非実在だけど、確かに私と目が合う瞬間があるの、え、そう、まだ出会ってはいないけどね。でも確信してるの、不思議でしょう。

 

じゃあ、あなたが本物はどこに行ったか教えてよ、そう、覚えていたら。私にだけわかるサインをちょうだい、こっそり右耳を引っ張って、そしたらあなただって気づくから。

あら、そろそろいくのね、これまでの長い話聞いてくれてありがとう、偶然にも、明日は雨ね、それじゃ、さよなら。

スパナで世界をこじあけて

たすけてたすけてたすけて、頭が痛いしびれるようだめまいがするここは宇宙、目と鼻の先で星がはじけたとこ、ピカピカのキラキラは砂となって光となってわたしの顔に降り注ぐ、世界は反転してぐるりと回って混ざりあって全てが等しくなる無になる、まぁぶる色した君の顔がゆがむゆがむザザ、とノイズが走る、あ、消えた、消えちゃったもう何にもないよ、みんなおんなじだ、淘汰された!よかったぁ、おやすみ

具合の悪い時に見る夢はいつも同じ、砂がサラサラと流れてゆく白い白い砂だ、サラサラいつまでも流れてどこかに消えてゆく、平衡神経を欠いた世界みたいでゆらりぐらりとわたしは揺れる、上に登ってゆくようなそれとも下に落ちてゆくような、流れてるのは砂なんかじゃなくてわたしわたしのことでしたか、ぐらり

400字詰め原稿用紙の白い孤独は誰のもの、計り知れないさみしさがどこまでもどこまでも続いてく、罫線と罫線の隙間をぬって不安が駆け上がる、ねぇこのまんまでいいのだめですそれはそれはいけません、永遠に今を持て余してるきっとこの先も、ゆがむゆがむ薄茶の罫線がゆがんで記憶を捏造する、あれ、わたしそんなこと言いましたっけ記憶にございません


今が大嫌いで過去が大好きで、未来はよくわからなくてここじゃないどこかに行きたいの、助けてほしいとよく声を押し殺して泣いてるけど一体ほんとは誰に何から救って欲しいかすら分かっていないの、すべてが曖昧で混沌としていてぼやけてぼやけて光の量が多くなって飲み込まれるようにして消えていってしまうんだって心のどこかでは信じてる、君もわたしも宇宙の塵だ、メガネをかけたら全てが元通りになったような気分、世界が冷たいガラスでコーティングされた、上書き上書き上書き保存、名前を付けて保存、忘れられたファイル、jpgでは読み込めません、Now LoadingNow Loading、熱を持った機械、生きてる、生きてるの?尊き生命の誕生おめでとう、やめて嘘吐き、輪郭が歪んでるじゃあない、みんな本物じゃないよこれ、さよなら、さよならユートピア、理想郷なんて追い求めたって意味無いって教えてくれた君に溢れんばかりの祝福と憎しみを、幻想を殺したのは君のその大きな暖かい手だ

さよなら、僕の永遠

『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』


失ったものよりも得られるものの方が大きい、って話はよく聞くけど、そんな都合良く感情に整理がつくわけない。
引っ越すんなら荷物は捨てなきゃならないし、進化を遂げたら昔の殻は脱ぎ捨てる、先に進むなら取捨選択をすべきだ、それは自明の理だけど、それが出来ないからぼくらは、溢れんばかりの大事なものを抱き抱えて、ここでうずくまっている。一歩一歩進むたびに、その手から大事なものがすり抜けて壊れてしまうから、前進も後退も、昨日も今日も明日も全部遠ざけて、ここで立ち止まってる。


ありきたりだけど、16歳になったら何でもできると思ってた。憧れてたアニメの主人公も、かっこいいと思った漫画の脇役も、大好きだったネットアイドルもみんな16歳だった。
彼女達が私に魅せた永遠は一瞬で、とても儚いものだった。だからこそ、美しかった。
彼女達は私とは遠く隔たれた空間にいつまでも生き続けている、今も死なない。私が死んだら、ようやく彼女達は私の妄執から開放されるだろう。
小さい頃は彼女達の歳に近づくのが単純に嬉しかった、少しだけ、彼女達になれた気がして。私も永遠へと近づけると思っていた。
今はそれが恐ろしい、だって私は永遠に16歳ではいられないから。
永遠は足早に去ってゆく。

恥ずかしい話、16歳でなくなるのが怖くて、17歳になるのが怖いってだけのこと、そのサイクルを受け入れてしまったら、私の時間は一気に加速するんだ、きっと。気づいたら、20歳になっていて、気づいたらおばさんになっていて、気づいたら死んでゆくんだ。それはとても恐ろしい。だから、私は、それに抗わなくてはならない、最後の最後まで、抵抗を続けなくてはならない、さもなくば、それをやめた途端に、きっと、これまでの時間の渦に飲み込まれてしまうから。


ねぇ、覚えてる、小学校の時は時間が経つのがひどくゆっくりだったね、緩慢としたぬるい時空にいたんだ、ふと、気づいたら窓の外が桜から緑に移り変わってたんだ、あの時の恐怖は忘れられない、私は初めて、季節を見逃した。
そう、放課後の教室が徐々に赤く染まっていく時間、覚えてる、一番前だった、気になる人の席からゆっくりと染まって、教室すべてが真っ赤になる瞬間。
あれらの体感速度はもう帰ってこない、私が12歳になる時にすべて葬り去られてしまった。


冷えたコンクリートを見つめ、遠くの幻影をつかめなかったそれからの私に、私は告げなければならない。

私は今の速度を、毎日を、愛さなければならない、過去ばかりを見つめて目の前にあるものを抱きしめてすらやれないのはひどく愚かだと、そろそろ気づくべきだ。

 

あの子に宛てたメールの一部

18歳になっちゃったら、パチンコ屋にも入れるし(行かないけど)ゲーセンも最後までいられるし(いないけど)なんだかんだで、今までより、私たちが望んでなくとも、急に大人になってしまう気がしてる、と、いうか、大人にさせられる、ような気もする。
だから、17歳はこれまでの最終防衛線だし、モラトリアムの終焉もきっと、近い。最後だからって無理に気張る必要は無いけど、(別に人生が最後って訳じゃあないし、私が勝手に言ってるだけだし)今までよりもずっと踏み出す毎日の確かさを大事にしていきたい、駆け抜ける日々に少しだけ目を止めて、今を再認識したい、そんなふうに思ってる。

 

17歳は最強の歳。
私は永遠の側を最速で駆け抜ける。

 

閉鎖的脳内フルカラー補正

また、一つ星が消滅してしまったのだ。
星が消える瞬間はいつも静かで、だから、いつまでたっても私はその一瞬を見逃してしまう。
もうじき終わるだろう、とは分かっていたのに、こちらへ届く光が前よりずっと弱々しくささやかであったのは知っていたのに、見ないふりをしていた。
いや、もしかしたら、もっとずっと前に星は消失してしまっていたのかも知れない。だってそうでしょ、星の光が私たちの元へ届くまでには何億光年もの時を超えてこちらへやって来ているのだ、私たちが見ていたあの光、あれはもう失われた光、だったのかもしれない。
星は死んだ。
私たちが求めていたものはとっくに失われていて、見えもしない、ただ、光だけを、その幻影を追いかけていただけ、なのかもしれない。
愚かしい、と一蹴されるに値する妄執である。


昔、当時ははるかに遠いと感じていた所にあるホームセンターに、何度か父親と行く機会があった。今となってみれば、さほど遠い距離でもなく、なんだ、あんなところだ、と思う程度の所である、脳内補正で美しい。
そこには、旧時代のアーケードゲーム機が数台あって、(当時からしても、旧時代である)、私は物珍しさに眺め、終いには、父親に一回やらせてくれ、とせがんだが、如何せん無下に断られ、一度もやる機会を得ないまま、気づいた時にはその機械は撤去されていたように感じる。


きっとそういうものなんだ。ひたむきに過去に価値を見出し、今までだけを賛美する、懐古主義であることは確かだ。思い出は美化され、星は消えたから輝き、アーケードゲームは一度も触れぬまま撤去されたから永遠のものとなり、全てはそこで時が止まり、私の中で未完のままいつまでも生き続ける、生き続けてしまう。

キミとは点々と明かりが消えた、放課後の学生食堂で、夭折したから天才になるのか、天才だからこそ、死すら意味を持ち夭折となるのか、って話をしたね。二人ともよく分からなくて、何度も何度も同じ話をしていた。

だけど、懐古主義であることは、その過去が失われたものだからこそ美しく映るのだ、と言いたい。私の瞳に永遠に映り込み、何度も眼を瞑っても消えることは無い、私には殺せない。いや、もう、誰にもその生を奪うことは出来ない。だって、もうここに実態はないのだから。
永久に幻としてそこにあり続けるのだ、きっと。


未来に興味が無い、って言ったら嘘になるけど、それでも私、やっぱり過去が好きだよ。

って言うと、今時の若者は未来に希望が無い、と称され、批評家は嬉嬉として騒ぎ立て、アナウンサーは深刻な顔で読み上げ、教師は真摯に未来を説き、隣のキミは付け焼刃の知識を携えて何度も世界のせいにしている。
私は君の言うことに多少のうそ寒さを感じながらも、概ねの同意を持ってうなずき、キミのまつげが意外と長い事に初めて気づいたりしていた。

 

生まれた時代を間違えたね、って話は何度もした、もっと前に生まれていれば、こんな生きづらくはならなかっただろうに、こんな下らないことに振り回されたりはしなかっただろうに、って。

私達が過去にいつまでもしがみつくのは、もしかしたら、いや、きっと、生まれ落ちる時を間違えてしまったからだ。ここではないどこか、への座標軸の誤差を埋めるために懐古している、縮まらないその距離を見つめ、何度も、何度も、永遠に、今も、過去を埋葬し続けている。

おはよう、むこうとこちら

適当な電車に乗って、始発駅から終点まで揺られる遊びをしていた。

始発であるその駅は、典型的なニュータウンで、比較的新しめの四角いマンションや、ビルや、おしゃれなショッピングモールが乱立している所だった。そのくせ、少し遠くを眺めると鬱蒼とした緑があって、そのちぐはぐさに奇妙な安らぎと、目新しさを覚えた。
別に故郷でもなんでも無いのだけれど、この歪さが好きだ、と思った。
都心から少し離れたその駅は、なかなか電車が来なかった。無駄に広く、長いホームでここを毎朝通る人々の生活を想像していた。毎朝、毎日、同じようにこの駅を使い、それぞれの目的地へ向かい、また、疲れた体を電車に乗せて、この駅へ帰ってくる人々のことを。
少し乾いた風の匂いは、甘い、緑の匂いがしたような気がした。
そうしている間に、電車がホームに静かにやってきた。短い車両編成であるので、ホームの端には止まらない、と言われ、慌てて移動する自分が少しおかしかった。同時にこの町の者では無い、と知れたようで気恥ずかしくもあった。
電車に乗り込むと、しばらくの停車時間を経て、ゆっくりと走り出した。一番先頭の車両の端の席に座り、ぼんやり、流れる車窓を眺めていた。
大きなショッピングセンターや、それに併設された、駐車場、ニュータウン最盛期に建てられたものであろう、少し古びた、集合住宅の数々。少し傾いた陽がそれらを照らしていて、やけに、綺麗に見えた。誰かが、時代遅れだ、と笑う、しかし心地の良い、柔らかな日常がそこにはあるような気がした。得体の知れない郷愁が胸を締め付けた。
帰れない、なんて言葉がふと頭をよぎる。帰る場所は、あるはずなのに。それでも、確かに、自分が一瞬、夕日に垣間見たその風景に、その日常には帰れないのだと。
そう思うと、無性に悲しくなった。
ぽつり、ぽつり、と吊革につかまる人が増えてきた。存外この電車は混雑するらしい。親子の小さな話し声、恋人達の密かな合図、部活帰りの少女達の笑顔、全てがさざめきとなって、車内に緩やかに広がってゆく。不思議と心地よかった。
しかし、それに比例して、窓の景色は遠くなっていった。人に塗りつぶされ、ただでさえ小さな車窓はさらに小さくなり、そして、消えていった。もう私の眼には知らない人の背中とカバンしか映っていなかった。寂しくもあったが、それはそれで良いのだ、とぼんやり思っていた。
大きな、他線との乗り換えが出来るターミナル駅に電車は近づいた。扉が開くと、さすがに多くの人が降りてゆく。中には、家族連れもおり、あぁ、今日、彼らはみんなで遠くへ出掛け、1日を過ごしてきたのだ、と思うと愛おしさとさみしさがこみ上げてきた。
人の空いた車内でまた、窓ガラスを見つめると、こちらをのぞき込む私の顔があった。
ひどい顔、とひとりごちてそれに重なる知らない町を見つめていた。
その町は川沿いの町で、昔はよく、家族で訪れていたところであった。天気のいい日には、青空が水面に反射して眩しかったのを覚えている。あの時の郷愁を抱えて陸橋の下の川面をのぞき込むと、夕日が反射して、綺麗だった。あの時の風景は見えなかったけれど、存外夕日も美しいのだと思えた。
もうすぐ終点の駅に着くのだろう、アナウンスが到着を告げる。私の知らないどこかで何かがあったようで、2.3分の遅れを謝っていた。時間に生かされているのかもしれない、急に現実に引き戻され、寂しくなる。
電車を降り、駅を出ると、これまでの淡い景色が重たいビルの灰色と、派手な蛍光灯と、街頭を照らす信号に塗り替えられた。ぼんやりとした頭でそれらを見渡すと、今までの景色とのコントラストで眩しかった。
小さく息を吸い込み、ゆっくりと歩を進める、
 
ここは私の知らない街。
 
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私が救われて、また誰かを救うのか、という話

「いや、あなたとあの人が実は似てるのはなんとなく分かってたけどさ」

 
いやさね、確かに似ているのかもしれないと思ったことは何度かはありますよ、例えば、誰かが言った言葉とかテレビの口調を気軽に真似してしゃべるとか、誰かに語りかける時の言葉の出し方とか、〜で〜は、〜じゃん!?みたいな言い方。ユーモアを強引に隙間にねじ込みたくなる気分とかそのタイミング。
だから苦手だって言ったらそれまでだけど、そういう風に考えるの、もう飽きたんで、やめます。私、あの人のこと好きです。その好きの概念的な話はもうちょい先で言うけどさ。
あ、それで、でも、そういうのは私個人としては昔っからやってて、そういうもんだ、と思っていたから、だからこそ、あの人に会った時にあ、同じことやってる人いたわ、と思ったし、逆に、あれ、あの人以外であんまりやってる人を見ない?とも思った。まぁ、それは偏見。マイノリティ故の優越感。自己を知れ。自惚れるな、常に己を客観視しろ。自分を特別、だと思った瞬間に私が一生をかけて大事にしなければならないもの、の腐敗は始まる。
それはともかくとして、ね、私はあの人にはなれないし、ならないよ。同じことやったってしょーがないでしょ。いや、別にかっこつけてんじゃなくて、さ。それと、私はあの人のような器用さとかカリスマ性はどこにもないから。あの人のような事は、似たようなことは出来ても、そのもの自体はきっといつまで経っても出来ない。そこには体現出来ない。でも、それはそれで良いと思っている。
だから、さ、何度も言ってるけど、同じ人間じゃないから同じことやったってしょーがないでしょ。あれはあの人がやるからこそ輝くんだし、そこに惹かれる人がいるのよ、光の下に虫は集まるけど、虫は永遠にその光にはなれなくて、不必要に近づくとその羽を焦がすだけだ、って事を私はそろそろ知るべきだ。
好きな人、と、問われて、私はいつもなりたい人を答えてしまうね。さっきだってそうだった。自己を肯定できてないとか、本当に他人を愛するという事が出来ないんじゃないかとか、実は酷く冷徹な人間なんじゃないかとか、思ったりしたけど、それはきっとおいおい知れていくよ多分。心配しなくとも良いんだ、って何度でも言いたい。言い聞かせたい、そうであれ、と今はまだ信じる時期でありたい。
別に良いんだ光に憧れたって。今の私に必要なのは羽を焦がさない冷静さ。近づきすぎもしないし、だからと言って引きもしないその生き方。それと、光になれないなら他の物になったって良いよ、それだって、光に負けず劣らず美しいのだと信じる心、それを貫く姿勢。
まあ、それの話は置いといて、私は、じゃあ、その不器用さで何かが出来ないか、と思う。不器用なら不器用なりに何かをする方法があると思うし、それで、またあの人とは違う、でも、最高に面白いことが出来ると思うし、それで誰かを救う、うーん、救う、なんて烏滸がましい事言いたかないけど、実際私は演劇に、あの人に、○○○さんや□□□□さんに、△△△達に救われたんだ。今ならはっきりとそう言える。だから、誰かまた救われる人がいて欲しいと心の底では願っている。うん、自己満かもしれないね。偽善的であるかもしれない。でも、祈ってる。もっと端的に言うのであれば、幸福を共有したいだけなんだ。
器用な人が通らない道を不器用が故に通ったとして、そこで見えた景色や出会った人を大切にしたいし、それはめちゃくちゃ面白いし、それで、そこから何かを作って、こんなんあるんだよ、って言いたいし、その時の私の衝動衝撃グルーヴ感を伝えたいし、なんだもう、むしろ一緒にやろう、楽しいよ、ってめちゃくちゃ言いたい。貴方の話が聞きたいです。どう思う、どう考える、聞かせて教えて、そんで面白いの作ろう、ってすごく思っている。きっと、その空間、場、空気はあなたを排除しない。受け入れてくれるし、私はあなた達とそれをこの目で見たい。
それが、ありだ、って思いたいし、そのやり方、生き方も価値が、絶対そこには、例え後付けであろうとも、や、理由は後からついてくるんすよ斎藤さんが言ってた、え、斎藤一。好きなんです、斎藤一の生き方をそれこそ憧れているしリスペクトしているし、なりたい人、って意味で好きって言ってる。うん、だから、何らかの意味があるんだ、そこには。その意味は私を救い続けるし生かし続けるし、もしかしたらその余波で誰かもうっかり救うかもしれない。成功とか失敗とかではなくて。ただ単にそれは付与的。
そうであれ、と考えているし、思っているし、願っているし、祈っているし、信じ続けている。むしろそうして生きていかないと立ってすらいられない。本当はそうじゃないのかも知れないけど、でも、私は私を生かすためにそう信じてる。それで良い、と思っている。その自負は決して醜くなんかない。
これが今の私の生命線であり、理想論であり、未来であり、そして、幸福な結果論である事を信じて。