キミの隣で、モラトリアム

虚実ないまぜインターネットの墓標

ノアの箱舟に乗り遅れたらどうすればいい

唐突に一人暮らしがしたくなって、賃貸をつらつらとみる遊びをしていた。賃貸は安い順に見ていくと到底人間など暮らせないのではないか、と思えるボロアパートとかが出てきてかなり面白い。窓ガラスがすりガラスだったり、エアコンが縦長い壁にひっついてるやつだったりするとそれだけでノスタルジック。生活臭とかそんなものは突き抜けて、ただただ時が静かに積み重なっている。なんかのバリアってあるよね。そういう空間って。
建物のはなしばかりしてしまうけど結局は人間が好きで、人間が暮らす空間にも愛着を持ちたがるだけなのだ。
安い賃貸はせいぜい6畳一間が限度だったりして、私が頑張ってお金を出せるのも、今ならきっと、そこが限度だったりする。ちなみに今、いる部屋が6畳の広さで、これが私の世界になるのかと思うと恐怖。何をどこに配置しようとかつらつら考えていたけれど、そも、物が入らない気がしてそれも恐怖。
物を持たないで暮らせる人の精神が分からない。時々ファッション誌とかで、持ってるものが机とお茶碗だけの広々とした空間に住んでる人とかを見ると、感性を疑う云々より、もはや狂気を感じる。気が狂いそう。私はどちらかと言うと物もちの方で、貧乏性なんで捨てられないんだ、なんて言ってヘラっと笑ってごまかすタイプなのだが、だってそうでしょ。
小学校の頃、別に仲良くも、悪くもなかった、単純に言えば付き合いのほとんどなかった子にどうして貰ったのかも分からない鉛筆とか、捨てられなくない?一番仲の良かった子が落書きを書いてよこした裏紙とか、飛行場に見学に行った時に貰った使い道のないしょぼいキーホルダーとか。
そういう、記憶の破片をいつまでも取っておきたい。時々、思い出したようにその引き出しを開けてひらすら自己満足に浸る時間が欲しいのだ。時々、物からビビッと記憶や忘れていた思い出が伝えられる事があって、その瞬間に出会いたいからいつまでも未練たらしく何でも取ってある。
でも、それは、物を持たない人たちにとっては狂気に映るのかもしれない。記憶とかそんな生のものが色濃く、まるで自分の分身のようにいつまでも狭い引き出しの中にみっちりと詰まっているのだから、そんなパンドラの箱を開ける気にはなれないのかも知れない。下手したら自滅しかねないよね。
まぁ、割り切れる強さがないからいつまでも過去を振り返りたがっているだけなのだけれど。
それでもいつかはそれを捨てなくてはいけない日が来るのだ。それは私も誰かもみんな知ってる自明の理。だって人は自分の一生分の荷物を抱えたまま生きてはいけないから。過去は過去として、要約して、翻訳して、圧縮濃縮すべて施して自分の中に収めないといけないから。まだ、私はその作業が怖くてできない。それが踏み出せないから、傷つかないように、思い出の道具を使って、現実から目をそらしている。
物を捨てるだけの強さはないが、いつまでも持っていられる甲斐性なども存在しえない。
そろそろ荷物は多くなってきた。
今度私が手に入れるべきものは思い出や記憶じゃなくて、離別する強さだ。