キミの隣で、モラトリアム

虚実ないまぜインターネットの墓標

閉鎖的脳内フルカラー補正

また、一つ星が消滅してしまったのだ。
星が消える瞬間はいつも静かで、だから、いつまでたっても私はその一瞬を見逃してしまう。
もうじき終わるだろう、とは分かっていたのに、こちらへ届く光が前よりずっと弱々しくささやかであったのは知っていたのに、見ないふりをしていた。
いや、もしかしたら、もっとずっと前に星は消失してしまっていたのかも知れない。だってそうでしょ、星の光が私たちの元へ届くまでには何億光年もの時を超えてこちらへやって来ているのだ、私たちが見ていたあの光、あれはもう失われた光、だったのかもしれない。
星は死んだ。
私たちが求めていたものはとっくに失われていて、見えもしない、ただ、光だけを、その幻影を追いかけていただけ、なのかもしれない。
愚かしい、と一蹴されるに値する妄執である。


昔、当時ははるかに遠いと感じていた所にあるホームセンターに、何度か父親と行く機会があった。今となってみれば、さほど遠い距離でもなく、なんだ、あんなところだ、と思う程度の所である、脳内補正で美しい。
そこには、旧時代のアーケードゲーム機が数台あって、(当時からしても、旧時代である)、私は物珍しさに眺め、終いには、父親に一回やらせてくれ、とせがんだが、如何せん無下に断られ、一度もやる機会を得ないまま、気づいた時にはその機械は撤去されていたように感じる。


きっとそういうものなんだ。ひたむきに過去に価値を見出し、今までだけを賛美する、懐古主義であることは確かだ。思い出は美化され、星は消えたから輝き、アーケードゲームは一度も触れぬまま撤去されたから永遠のものとなり、全てはそこで時が止まり、私の中で未完のままいつまでも生き続ける、生き続けてしまう。

キミとは点々と明かりが消えた、放課後の学生食堂で、夭折したから天才になるのか、天才だからこそ、死すら意味を持ち夭折となるのか、って話をしたね。二人ともよく分からなくて、何度も何度も同じ話をしていた。

だけど、懐古主義であることは、その過去が失われたものだからこそ美しく映るのだ、と言いたい。私の瞳に永遠に映り込み、何度も眼を瞑っても消えることは無い、私には殺せない。いや、もう、誰にもその生を奪うことは出来ない。だって、もうここに実態はないのだから。
永久に幻としてそこにあり続けるのだ、きっと。


未来に興味が無い、って言ったら嘘になるけど、それでも私、やっぱり過去が好きだよ。

って言うと、今時の若者は未来に希望が無い、と称され、批評家は嬉嬉として騒ぎ立て、アナウンサーは深刻な顔で読み上げ、教師は真摯に未来を説き、隣のキミは付け焼刃の知識を携えて何度も世界のせいにしている。
私は君の言うことに多少のうそ寒さを感じながらも、概ねの同意を持ってうなずき、キミのまつげが意外と長い事に初めて気づいたりしていた。

 

生まれた時代を間違えたね、って話は何度もした、もっと前に生まれていれば、こんな生きづらくはならなかっただろうに、こんな下らないことに振り回されたりはしなかっただろうに、って。

私達が過去にいつまでもしがみつくのは、もしかしたら、いや、きっと、生まれ落ちる時を間違えてしまったからだ。ここではないどこか、への座標軸の誤差を埋めるために懐古している、縮まらないその距離を見つめ、何度も、何度も、永遠に、今も、過去を埋葬し続けている。