キミの隣で、モラトリアム

虚実ないまぜインターネットの墓標

世界の果てとQ&A

あらやだ、死に場所もわからずにここまでやってきたの、ここに墓標を立てるつもりなの。あらそう、あなたここで死ぬのね、かなしい、って言えばいいのかしら、私あなたの死についての言葉を持ち合わせていないのごめんなさい。それでも多少の事はわかるわ、今までいたはずのあなたが明日からは私のいる世界から消えるってことでしょう、私がどんなにあちこち走り回って大声を出して叫んでもあなたは見つかりっこないってことでしょう、このふざけた理不尽な美しい世界からあなたは永久に消え去るのでしょう、知ってるわそれくらい、それだけ。

 

ねぇ、じゃあ、これから「あなただったもの」が入るはずの「墓」についてどう思う、ここにはかつてこの世界で息をしていた「あなただったもの」がゴロゴロと乱雑に詰め入れられて、ああ、違ったわね、原型なんて留めないほどに焼かれて白い砂糖菓子のような骨となって埋められるのだけれど、それは確かにあなただったと言えるの、そこにあなたはいるの、あなたはどこにいるの。

 

私思うの、宗教的なもしくはヒューマニズムに則った民俗学的観点からのぞめば、それはきっと遺族や残された人々の拠り所となるものなのでしょう、だって人は目に見えるものでなければすぐに忘れ去ってしまうもの。ひどく愚かで、そしてとても可愛らしい生き物でしょう。この世界にいたはずの誰かを忘れないために大きな目印をつくって、そこにまるでその誰かが今でも存在するかのように過ごしているのよ。

だけど、生物学、科学的な観点から言えば、その土の下にあるのは壺に入ったただの白い骨だわ。更に時も経てばその白い骨も次第に人のかたちを忘れて白い粉となるの。もしも知らないうちに誰かがこっそり赤の他人のものとすり替えていてもきっと私たち気づかないわ、だってそれ、骨なんだもの。それでもそれはこの世界にいたはずの誰かなの?、私たちは幻影に固執しているんじゃないかしら、そんな気になってくるわ。

 

ちょっと休憩しましょう、コーヒーブレイクとでも洒落込んじゃおうかしら、ところで、とても大事だった人が死んだあとの雨の日はとてもあまい香りがするそうよ。さぁ、なんで、なんでかしらね、死は生の裏返し、いいえ、生でもあるから、私の知らないどこかでまた新しい何かが誕生しているのかもしれないわ。でもきっとそれを私は永遠にこの目で見ることは出来ないの、ええ、きっと。別に私の目が見えないとかそんな即物的な話じゃなくて、なんとなく、そう、なんとなくそんな気がするだけ。

ねぇ、時々思わない、限りなく愛しい人が死んだ時、その人の骨はきっと、今までに見たものの中で一番美しくて、白く輝いていて、舐めたらきっとあまいのよ。その美しい絶望を一舐めするとやわらかにあまい味で、さり、という音を立てて、ゆっくりと舌の上で崩れていくわ、きっと。私それを信じてる。でも私、なんとなく、私が舐めるその絶望は愛しい人自身だと思うわ、冷たい土の下にいる誰かは本当の誰かなのかはわからないけど、やさしくて、やわらかいそのあまさは多分愛しい人なのだと思うわ。

 

そう、墓の下は誰がいるのか、って話だったわね、どう思う。私何度も考えてみたけどやっぱりあの土の中に誰かがいる気にはなれないの、ねぇ、誰もいないんじゃないかしら、記憶媒体としての物質が、それはここにいたはずの誰かと今でもこの世界に生きてる誰かを現実の時間軸で確かに繋いでいた、目に見えて、手に触れることが出来るものだけが、冷たく静かに埋まってるだけなのよ、多分。それは確かに記憶を繋いでくれるけど、その誰かではないわ。私たち、土の中に新たな見ることの出来ない誰かを無意識のうちに生み出してるのよ。でも、別にそれは構わないと思うの、だってさみしいじゃあない、人間には耐えられないわ、私あなたがいなくなってもさみしいともなんとも思わないけど。このくだらない世界で生きてくために新たな誰かを誕生させるのよ、あ、わかった、だから大事だった人が死んだ次の雨はあまい香りがするんだわ。きっとそうだわ。

 

え、じゃあ、本物はどこいったのかって。さぁ、私もそれはわからなかったわ、でも、愛しい人の骨を舐める時とか、明日もわからないような日に見る夢とか、そんな時には確かに本物がいるような気がする。非実態で非実在だけど、確かに私と目が合う瞬間があるの、え、そう、まだ出会ってはいないけどね。でも確信してるの、不思議でしょう。

 

じゃあ、あなたが本物はどこに行ったか教えてよ、そう、覚えていたら。私にだけわかるサインをちょうだい、こっそり右耳を引っ張って、そしたらあなただって気づくから。

あら、そろそろいくのね、これまでの長い話聞いてくれてありがとう、偶然にも、明日は雨ね、それじゃ、さよなら。