キミの隣で、モラトリアム

虚実ないまぜインターネットの墓標

小規模エスケープ世界革命

どこかに行きたいってのと、ここにはいたくないってのは同意義だって話を聞いた。

 

わずか1.2年前の私は本当にどこかへ行きたかった、見知らぬ電車に飛び乗って知らない町へと行きたかった、毎日おんなじ風景の通学路に嫌気がさしてた、「ここじゃないどこか」って何度も何度も呟いてた。どこか、ってなんだよ、そんな曖昧なもの、って思いながらもそれにしかすがることが出来なかった。

 

 

もう、あれから2年も経つ。2年前の冬、冬休みの最後の日に青春18切符の最後の1回を使って、「遠く」に行った。本当は夏にでもやるべき事なんだろうけど、すべてが嫌で、でも何が嫌なんだか分からなくてどうしようもなかったから、電車に飛び乗った。
行き先は決まっていた。私は地図をみて旅をした気分になるのが好きで、スマートフォンを買ってもらったはじめの頃は、よくそうやって遊んでいた。今も時々遊んでいるけれど、あの頃に比べたら断然頻度は落ちてるだろう。その時に見つけた浮島町公園に行くつもりだった。川崎にある公園で、羽田空港を離発着する飛行機が良く見えるらしい、工場区域のそばにあるらしい、それくらいの事しか知らなかった。ただ、そこは、多摩川が東京湾に向かって流れる一番河口付近のところだった。海が好きだった私は、勝手に、ここが今の私の世界の端だと思って、向かった。
揺られる電車の中では、通勤途中のサラリーマンや、もう学校が始まった学生達の間で、窓の外を眺めていた。はやく、はやく、もっとはやく景色が移り変わって、知らない風景に囲まれたかった。あまり外ではイヤホンをつけないのだけれど、その時はイヤホンをつけて、ずっと椎名林檎の閃光少女を聴いていた。3分程度の短い曲を、何度も何度も繰り返し、それだけを縋るように聴いていた。
周りの景色も充分すぎるほど見たことのない街並みになった頃、電車が川崎に着いた。川崎はそれなりに大きい街で、店も沢山あったけれど、私の知っている街とは雰囲気が違った。公園には、バスか、車で行ける、とインターネットに書いてあったけれど、バスの停留所は駅のあちこちにあって、よく分からなかったから、京急に乗って、行けるところまで行ってから、歩こう、と決めた。
京急大師線線は赤い電車で、本当に短い路線だったし、行き先も、何も無いところへ行くから、車内はガラガラだった。川崎から乗り込んできた人も、大半は川崎大師で降りた。そういえば、今年はまだ初詣に行ってないや、と思ったのを覚えている。
終点の小島新田で降りた。本当に何も無い駅だった。iPhoneの地図を片手に進んだ。工業地帯に隣接した街で、小さな工場や、最盛期に建てられたのであろう集合住宅や、古びた商店などがあって、不思議な気持ちになった。ある程度進むと、工場が色々見えてきた。フェンス越しに臨む工場はとても大きくて、その重厚感に圧倒されたし、あの時、私は工場区域の風景が好きになった。その後、この話を友人にしたら、写真が趣味だった彼女は、工場夜景とかいつか見に行こうよ、と言っていて、絶対行こうね、と返したけれど、あの約束はまだ覚えてくれているだろうか、と思っている。
しばらくトラックなどが頻繁に行き来する道路の脇を進んでいくと、小さな林があった。そこを抜けると浮島町公園だった。公園には小さめの風車が2.3本たっていて、海からの風を受け、よく回っていた。背後にはもう忘れてしまったが、有名なメーカーの工場か会社が建っていたような気がする。インターネットに書いてあった通り、海が良く見える公園だった。遠くの方までよく見渡せて、時折、向こうの方から汽笛を鳴らしながらやってくる船も見えた。空には羽田空港を離発着する飛行機がひっきりなしに飛んでいた。お昼をまだ食べていなかった私は、公園の一番高台にあるベンチに座ってコンビニで買った安いパンをかじった。イチゴ味のパンだった。
それからは何をするともなしに、海と空を眺めていた。そこは、航空写真を撮る人たちの中では有名なスポットでもあったらしく、平日にも関わらず、数人、大きなカメラを抱えて、熱心に飛行機を撮っていた。飛行機の違いなんてよく分からない私は、ただぼんやり見ていた。冬だから、当然寒かったのだけれど、太陽に照らされていたせいか、不思議と寒さは感じずに、ただ、雲が流れる様子や、波が揺れる様子を眺めていた。
随分と景色を見ていたんだと思う、日も暮れかかってきたから、名残惜しいけれど、帰ろうと思って公園を出た。帰り道の足取りはもっと重くなるかと思っていたけれど、存外普通だった。たまたまバス停を見つけて、バスがやってきていたので、走って乗った。足取りは普通だったけど、うまく走れなかったから、やっぱりそうだよな、と思ってガラガラのバスに乗り込んだ。バスの中は暖かくて、ウトウトしてしまった。知らない街の、知らないバスで、寝てしまったけれど、意外と私はこの街で上手くやっていけるかもしれない、と、住む予定もさらさらないのに、誇らしく思っていた。帰りの電車は夕日が綺麗だった。川の近く、大きく線路がカーブするところで、水面に夕日が反射してキラキラと光ってとても眩しくて美しくて幸せだったことを覚えている。

 

 

そうやって私の冬休みは終わった。
小さな逃避行を繰り広げて、別に何かが変わったわけじゃない。何事もなく新学期は始まった。相変わらず毎日はやってきて、同じ通学路を通って、学校に向かう。そうした毎日を繰り返して、祝福されるような幸福を、突き落とされるような絶望を味わって、あれから、私はもうすぐ、2回目の冬を迎えようとしている。

 

もう今は、あの時ほど「ここじゃないどこか」に行きたいとは願っていない。屋上から見る景色や、流れる車窓をみて、胸が苦しくなるけど、きっとそれは単に郷愁だ。ここから逃げて逃げてもっとずっと遠くに行きたいと切望はしていない。腐るほど同じ毎日にひりつくような嫌悪を抱いていない。
それは、きっと、今ここで生きてみてもいい、と思ったからだろう。あの時、私は、「どこか」に行けば、大丈夫だと言ってくれる誰かがいると願っていた。だけど、私はこの2年で、「どこか」に行かずとも、自分で、新しい居場所を創り上げた、今ここで戦う武器と仲間を手に入れた。そこにいる彼ないし彼女は、大丈夫だとは言ってくれないけど、にやり、と笑って、面白いじゃん、と言ってくれる。それだけで充分だと思えた。

私は私の世界に自らの手で革命を起こした。


私は、ここで生きてみてもいい、と思った自分を認めたい、「ここじゃないどこか」を捨てたと言う事は、諦観でもあるだろうし、進歩でもあるだろう。
だけど、ここではないどこかを探す事をやめた自分に目一杯失望したいし、そうやって今ここで生きることを選んだ自分の背中を押してやりたい。
2年間の淘汰を、成長を、挫折を、困難を、希望を、期待を夢を痛みを悲しみを、そして、ありふれた日々を、全てをひっくるめて、私は私を肯定したい。

 

確実にあの時より私の世界は拡大した。
今はもうきっと世界の果ては浮島町公園ではないだろう。

そうしてまた、「ここじゃないどこか」を思い出す日が来るかもしれない。閉塞感を感じたのなら、探索をして、世界を広げればいい。

 

今、「ここじゃないどこか」の誰かでなく、私は私自身に告げる事が出来る、大丈夫、私は最強の武器と仲間を手に入れた。

 

そう願ってもうしばらくここで生きてみる。