キミの隣で、モラトリアム

虚実ないまぜインターネットの墓標

君じゃ、星にはなれなかった、ね

嫌いだから殺すのか、好きだから殺すのかでずいぶんと人間性が変わってくると思うのだが、(ってか、そもそも殺す時点で人間性はかなり問われている)嫌いだから死ぬ、か、好きだから死ぬ、の二つが今の流行りなの?そんな気がするそれだけだけど。
憎しみで人を傷つける程の勇気はなく、だからと言って愛憎で嬲るほどの気概もない。故にその気持ちは全部自己に向いてしまう。内向的、と言ってしまえばそれまで。いやぁ、害のない世の中になったね?自分自身を憎めばそれで終わるもの。
昔より、私なんて、とか言う子が増えてきたのも事実で。だってそうでしょ、自虐を謙虚と捉えて肯定する文化になっているんだから。しかもそういう子がカルチャーの発信塔になってるんだよ、そりゃ、しょうがないよ。
自己嫌悪を最も美しいものとして昇華出来るか?それは無理難題。君たちが見てる彼や彼女達がそう見えるのは、受け取り手がいるから。彼ら彼女らが発信した自己嫌悪とも呼べる自意識から垂れ流したカルチャーを喜び勇んで受け取り、崇拝する君らがいるからそれが成り立っている。彼ら彼女らの自己嫌悪は昇華される。
だけど何も持たない君らがそれをやった場合、濁りきったそれは昇華されるはずもなく、ただただ自己に冷たい刃として戻ってくるだけなんだよ。それだけのこと。
結局の所、存外世界は単純に出来ていたりして、強い人だけが、幸せに暮らせるってこと。世界の理を知らなさ過ぎたね、僕ら。
心中なら古典芸能にも語られる伝統美みたくなっているけど、(そも、日本のそういう文化もいささか問題がある)勝手に死んじゃうのは身勝手だよね、って話をあの子とした。だってそれじゃ、自分が大好きなだけじゃない。好きな人の瞳に映る自分の姿を愛してるだけだよ、愚か者。ねぇ、君と僕だけはそうならないといいね。
映画を見て、お互いのくすりとわらう声だけを聴いて生きていこう。