キミの隣で、モラトリアム

虚実ないまぜインターネットの墓標

ファミリーバイアス

偏向というのは実に恐ろしいもので、渦中にいる人物はその歪みにさえ気付いていないのだ。では、どうやってその歪みを認識するかというと、外側にいる他者から顔をひっぱたかれるしかない。今回私の頬をはたいたのは、幸福な家庭、もしくは、そんな家庭に憧れを持った私自身だった。

 

 

西加奈子の本に出てくるような家庭が現実にあることを知った。放任主義だが,子どもにはしっかり理解のある両親,一緒に買い物に行くほど仲の良い兄弟,料理の上手な母親。話を書けば聞くほどはっきりとした輪郭が形作られ,「理想の家庭」は私の中でよりリアリティを増した。純粋に良い家庭に育てられていると感じた。良い育ち方をしていると感じた。だからこそ,良い性格をしていると感じた。相手への肯定的な感情が高まると同時に,羨望も静かに湧き起こった。羨ましかった。ただ,不思議なことに妬ましくはなかった。

同時に,家族についての小説をよく読むようになった。今まで気嫌いしていた類の小説を躊躇いもなく手に取り,読み,涙まで流した。自分の変わりようが不気味にまで思えた。歳をとったこと,環境が変わったこと,そんなことで人はここまで別の人間のようになるものかと思った。

 

 

冬,進路を決めるにあたって教授と面談した際に,「君の母親は異常だと思った」と言われ,これまで自分に信じ込ませてきた「普通」が音を立てて崩れていくとともに,ここ最近の自分の変貌具合がまっすぐな線で繋がった。「理想の家庭」に憧れを抱くのも,家族を描く小説を狂ったように読むのも,全て私には無いものだからだ。家族とともに実家で暮らす「異常」の渦中では,おかしいとは感じつつも,心のどこかではいつも,私が勝手に苦しんだり悩んだりしているだけで,こんなものはありふれた「普通」なのだと思っていた。しかし,「異常」だと思って改めて振り返ってみると,おかしなことばかりがぼろぼろと思い起こされて眩暈がした。こんなコペルニクス的転回があって良いものかとすら思った。

けれども,今更無いものを手に入れるためにどうこうしようだなんて気は無かった。時間的にも空間的にも自分の家庭と隔たりを得たことで,諦めを覚え,執着は解かれ始めていたからだ。眩しい光をみたところで,自分の背後にある暗闇の黒さに怯えることは無くなっていた。光が欲しければ,新しく生み出せば良いのだ,と思えるくらいには人間らしくなっていた。

 

 

ところが,「異常」の空気を吸って育った人間の肺もまた黒く汚れており,それは環境を変えた所でそう簡単に「普通」へと変わるものでは無いようだった。

前述の人との会話の中でどうしても分かり合えない時があった。何度説明しても私の伝えたいことが相手にはまっすぐおりていかないのだ。相手の言い分も,私の独りよがりな主張の欠陥もわかる反面,どこかピントのずれたやり取りで苦しくなったが,「家族なんだから伝わらないことなんてないよ」という一言で,この噛み合わなさの原因がはっきりとした。

伝わらないという絶望を知らない人もいるのだ,とショックを受けた。目の前が真っ暗になった。家族なのに伝わらないことがあって,どうしても伝えたい,わかってもらいたい相手だからこそ,伝わらない苦しみや,孤独感や,虚無感が見殺しにされた言葉とともに喉の奥に詰まる感覚が分からない人もいるのだ。あの絶望の深さを,いやそもそもそんな絶望があちこちにあることすら知らないからこそ,私の言葉は届かなかったのだ。

一方で,「普通」に「理想の家庭」で生きてくればそんな思いは抱くことがないのかも知れない。すなわち,その事実は,「異常」の中で生きてきた私の歪みを露呈するものでもあった。相対化されることで浮き彫りになる現実は,想像上に残酷で,家族という呪いはしぶといものだと思い知った。血は水より濃い,という言葉すら笑って流すことのできない自分がいる。今度は私が,新たな光だと偽ってこの呪いを誰かにかけてしまいやしないだろうか。ならばもういっそ,全てを絶やしたい。光など過ぎた望みだったのかもしれない,誰かを呪うくらいなら何もいらない。

 

衝撃を受け,言葉に詰まった私は,相手の発言に対し,「神話ですよね,それ」と返すことしかできなかった。