キミの隣で、モラトリアム

虚実ないまぜインターネットの墓標

ニッポン懐古録

日本は強かった。

高度経済成長期からバブルが弾けるまでのあの間、日本は強かった。先進国の仲間入りを果たし貿易も次々と行い、ものづくり大国なんて呼ばれながら、経済は確かに成長し国内は豊かになっていった。ただ、実質的な強さと言うより、もっと根幹の部分に強さがあったと思う。もちろん、生活の豊かさで言えば、技術革新を果たして携帯端末が波及し、デジタルづくしになった今の方がよほど豊かだ。しかし国民全体に蔓延していた空気はもう二度と生み出すことが出来ない。それは日本がもう一度戦争に負けでもしない限り、有り得ないだろう。

 

あの頃、国民は貧しかったけれど、そこには確かな日々があった。明日を保証されてなくても今日はここに存在した。豊かになる以外はなかった。皆、いずれ豊かになると訳も分からず確信していた。工場の労働者も、日がな内職をする主婦も、場末のストリッパーも、きっと今より豊かになって良い生活を送るのだと信じて疑わなかった。ならず者もはみ出し者も許容された。彼らの間で線引きは、今豊かか、いずれ豊かになるかでしかなかった。

 

早くも「失われた二十年」などと揶揄されるようにまでなってしまった今の我々には、あいにく強さなんて欠片も残されていない。あれだけ不確かな存在を盲目にも信じていたのだから、当たり前ではあるが、今の日本は空虚だ。あの頃みたいな強さは嘘みたいに消え去って、それどころか失われたものに対するヘイトすら、今やあぶくのように浮かんでは消えるばかりだ。何も無い。この国は白くて清潔で歪な均衡を求めている。とてつもなく弱い。怒りで国一つ変えることすら出来なくなってしまった我々はこの病室のような日々に適応してゆくしかないのだろうか。ブラウン管を姿見にしていたあの頃に戻る術はもうどこにも残されていないのだろうか。

失われたものたちを永遠になぞりながら未来は知らぬ間に終息を迎えている。実態を持たない薄っぺらい言葉は聞き飽きた。もう一度、あの分岐点に飛び込む力が欲しい。ラディカルで目の覚めるような衝撃を渇望している。強く、まぎれもなく強く、確かでありたい。